水木流は、元禄時代の名女形・水木辰之助を流祖とする。
水木辰之助(一六七三~一七四五)は元禄八年(一六九五)には若女方上々吉の位を占め、一時江戸へ下ったが二年後に帰京、宝永元年(一七〇四)に引退するまで人気は衰えなかった。
「槍踊り」や「猫の所作」を得意とし所作事の名人として名高く、とくに元禄十年万太夫座顔見世に演じた「七化け」(狗、殿上人、老人、小童、若衆、女の怨霊、猩々)は後の文化文政期に流行する変化舞踊の嚆失とされ先駆けとなった。
この辰之助が、また門弟・粂が、初代水木歌仙を名乗り一流を樹立(娘踊師匠の元祖となる)したという説があり、以降二代から四代まで養女が継承、二代目は文化以前に活躍、徳川家の城中に召されたお狂言師で歌扇と称したと伝えられる。三代目の家元歌仙は、幕末期に路考お粂と評判された美人で、水木流はこの時期に興隆したともいわれている。
しかしながら、今日のようにいろいろな流派が生まれ、家元制度が成立してくるのは江戸の後期、幕末から明治期にかけてであって、十七世紀後半の元禄期とは年代の開きがあるのが不確かで疑問に思われる。
江戸時代には良家の子女の躾・教養などのために女師匠の需要があり、また各藩の江戸屋敷に召され奥方、侍女を指導する女師匠は御狂言師と呼ばれた。これらの御狂言師は、振付師系の藤間、西川を名乗り、当時所作事に評判高い俳優らの名字を名乗って武家屋敷にあがり、また稽古所を開いて子女の教育に当たった。
確かに水木流は明治期までは男弟子を取ることを禁じていた御狂言師の流派で、江戸時代後期には、水木を名乗る女師匠が『御狂言師番付』の上位を占めている。
二代目家元と称する水木歌仙の名は天保五年(一八三四)山王祭から登場する。当時、江戸の二大天下祭(山王祭・神田祭)には、附祭といって、一般庶民の子女が芸能を披露する場があった。こうした祭礼の記録に、振付、後見、踊り子の芸名が記されており、水木の名も散見される。山王祭に「踊子歌栄次、後見歌仙、ひで……」と苗字は省かれているが水木と推察される。次いで天保八年版(一八三七)見立番附『東都高名 五虎将軍』に妓女の一人として「水木歌仙」の名があり、『御狂言師番附』には、行事筆頭の位に大極上吉と記され、当時の御狂言師の第一人者であったことが確認できる。文久元年(一八六一)版の見立番附『東都自慢花競』には、「狂言劇場いつでもわかい水木哥仙」と五十九歳になっても評判の人だったという。
四代目は三代目と称される歌仙の養女が継ぎ、歌山を名乗ったという。明治八年(一八七五)刊『諸芸人名録』(税を払った人の記録)には歌仙、歌山ともに記載あり別人か同一人か、疑問が残る。
この後、後継者が無かったため家元相続問題が起こる。門弟の歌千代が一時預かり、その娘婿の三代目歌山が歌仙となり五代目家元を襲名したが、関東大震災後に大阪に遍塞した。
それに伴い東京在住の水木流一門は流儀の維持と発展のため、昭和八年に東京水木会を結成、理事制の組織が編成され運営された。理事は二代目歌若、歌栄、二代目歌橘、歌保、初代歌紅(後の紅仙)歌幾の六名。十五代目市村羽左衛門を顧問に頂き、その門下で舞踊振付に優れていた市村羽太蔵(当時藤間勘助・後に橘流家元橘抱舟)を相談役に迎え、指導を仰いだ。昭和九年春第一回の「水木会」を開催、以後毎年続けられた。
しかし昭和十七年、芸道上の問題から、歌栄、歌幾、三代目歌橘、歌寿栄らが脱退、新たに水木流舞踊協会(会長・水木歌栄)を設立、分流した。この分離のほか病没者も相次ぎ、東京水木会は歌紅一人が残されることとなった。
水木歌紅(後の紅仙)は、日本映画の初期に、銀幕の女王、大スターとして活躍した栗島すみ子。舞踊界においても昭和四年に「踏紅会」を興し、昭和における新舞踊運動の先駆けとして活動を開始、第一回のリサイタルを開催以降、毎年続けられた。第二次大戦下、歌紅は大陸へも慰問に出かけるなど舞踊活動を続け東京水木会を守り続けた。敗戦後、歌紅は古参の門弟、歌澄、歌峰、歌宣や二代目歌若門弟の歌人など有力な門下生を統一し、東京水木会を再編成し、昭和二九年に会長に推される。初代・歌紅は水木流を東京に根付かせ今日の繁栄の元を作った功労者であった。
しかしながら昭和五十四年末に、歌紅(紅仙)の養女、辰女=二代目歌紅が、東京水木会を理事制から家元制に提案したが受け入れられず、昭和五十五年に二代目歌紅、紅仙は東京水木会を退会、栗島派水木流を創立した。
東京水木会は、昭和五十六年一月に、水木歌澄を理事長、歌人・歌峰を副理事長とし新組織を確立した。この当時の名取会員は三百名、以降一年おきに「東京水木会」を国立劇場で開催。東京にとどまらず全国各地に支部がおかれ発展を続けている。
平成十九年に新体制となり、歌幸が理事長、佑歌が副理事長に就任。それを助け常任理事に歌泰(仙台)歌優(盛岡)歌菫(釜石)歌女羽(水沢)歌那女(仙台)が就任。平成二十一年九月現在、名取会員の数は千百十二名にも及ぶのが現況である。
舞踊評論家・舞踊史家 西形 節子